経営とは?_26_全集中_第1編

毎度お馴染み畑の管理人ニンジン🥕です

 

Yahooのニュースで、星野リゾートさんの対談話がありましたので、引用させていただきます。(同族経営のリサーチの一つみたいですね。)

 

私の感想は、家業の継続というのは、特に家族のような近しい組織での経営も含めて、本当に楽しそうな反面、苦渋の決断も迫られる、本当に毎日が勝負なんだなと感じました。

技術が製造業には必要だ、先ずは特許だ!研究開発だ!なんて会社の小さな組織の中で、奮闘している自分が、なんか小ちゃいなーって感じちゃいました。事業を作るって簡単に言えないなーと、想いをもつと爆ぜないといけないなーと真摯に思いました。(煙たがられているし、後が無いですが、楽しめていますし、専門分野に近しいところでもあるので、「領域展開!」しながら、辞めずに突き進みますがね🤗)

 

以下、原文https://news.yahoo.co.jp/articles/566886fc094fa29c2b4ecf09ad41a2adbe8a9177

 

【星野氏から、先代の玉川氏への質問状】

玉川政男様  星野リゾート代表の星野佳路です。  先日は日経ビジネス電子版の企画でファミリービジネスをテーマに玉川基行社長と対談させていただきました。  お話を伺う中で、6代目社長の政男様が当時24歳の基行氏に事業を譲り、その後一切経営に関与しなかったとお聞きしました。その際の心境に深く興味を持ちご連絡をさせていただきました。  下記設問につきまして、1~5の選択肢でご回答いただけますでしょうか。 設問:当時24歳の基行氏に事業を完全に譲った際の心境は。  1. 優秀な息子なので問題ないと思った。  2. バブル崩壊等で経営に疲れ興味がなくなった。  3. 大幅な人員削減時に大事な仲間を失った責任を感じていた。  4. その他  以上、よろしくお願い申し上げます。 星野リゾート 代表 星野佳路 【6代目の玉川政男氏からの回答(社長秘書による聞き取り、抜粋)】  私は2歳で玉川堂5代目、覚平夫妻の養子となった。両親、親戚、周りの人々にチヤホヤされ、わがままいっぱいに育った。幼いときから、4代目のように東京芸大東京芸術大学)を出て家業を継ぐのだ、玉川堂の名を上げるのだと、家庭教師や絵の先生にかしずかれて教育され、それらの重圧をずっと若いときから背負わされてきた。私は将来、自分の子どもができたら、そういった重圧をかけまいと思った。 (大学に入学し、60年安保、放浪など経験)  母の体調が悪くなり、新潟へ戻った(玉川堂へ入社)。  幸い男の子が3人生まれた。長男には、玉川堂の後継者として自分が子どものときに受けたような重圧をかけたかもしれない。 ※ 現社長(二男の基行)の記憶では「兄は玉川堂を継ぐプレッシャーはすごいと、高校生のころに口にしていた」 (1991年、長男が交通事故で24歳で亡くなる)  長男が夭折(ようせつ)し、そこで思いついた。子どもにはすべて任せるべきだ、何か失敗したら自分の手で解決すればよいことだと。  獅子は子を千尋の谷に落とすという。  可愛い子には旅をさせよ。  社長(二男の基行)と専務(三男)には何も言わないでおこうと思った。それが成功だった。  今の子どもは鉛筆も削れない。  手を切ったっていい、切れば削り方の加減が分かる。  そういうことを徐々にこっちも感じて社長と専務にはそういうことを言わなくなった。もし痛い思いをしても失敗しても、自分で解決すればいい。  一般的に企業は創業者、後継者、3代続くと大丈夫といわれている。燕(のファミリービジネス)は初代がやって、次が親の意向でやっても、3代、4代はダメになっている(ことが多い)。親がガミガミいう企業は続かない。本人の自主性に任すことである。また子どもたちにはそれだけの能力があるわけだから。  (星野氏の質問事項にあるように、基行のことを)「優秀」と言われるとなんだが、「素直」だということだけは自分は分かっていたので(任せた)。  バブルの崩壊で、(同じく星野氏の質問事項にあるように)「経営に疲れ興味がなくなり」はしなかったが、銀行や計理士に相談しても、人員整理しなければと言われてきた。従業員に辞めてくれと言わなければならないのは辛かった。  基行が24歳で入社してしばらくは、新潟県内の取引先の担当者に紹介したり、お得意様回りもした。  そのうち(基行は)商才があるのか、これまでにない取引先の仕事をいろいろと持ってくるようになり、社長が入社した翌年には問屋を越えた直接取引が始まった。それは社長の功績、たいしたものだ。  問屋へ卸すだけの商売はよくない(と思っていた)。しかし、燕の人は(問屋を通すのが通常の商売道徳であり)直取引はできない、洋食器を担いでデパートには行けない。  自分はやはり(職人として)現場にいるほうが好きだった。  三男の洋基(現専務兼工場長)に工場に入ったらどうかと言ったのは、玉川堂はやはり技術あっての会社であり、技術を継承する玉川姓の者が現場にいないと将来的に困るのではないか、自分の血を分けた玉川の者が将来的に現場にいることが必要だと考えたから。工場長になるには、製造と販売の経験の中で仕事の段取りができる人間でなければならず、今では口打出(一枚の銅板を叩いて注ぎ口を打ち出す継ぎ目のない湯沸)もできるようになったし、洋基が工場長というのがやはり収まりがいい。いいものを作る技術は一生かけて磨くものである。  今にして思えば、私は経営者としても作家(職人)としても二流、中途半端な人間だったと思う。しかし1つだけ自慢できることがある。それは1枚の銅板を叩き出し、極限まで口径を打ち縮めたものを作ったことだ。若いころ、芸大資料館(東京芸術大学の芸術資料館。現在の大学美術館)で、平田宗幸氏作の「茄子(なす)」の置物を見た。これは鋳造(金属を溶かして型に注入して造形する技法)ではなく、一枚の金属板を鎚(つち)で打ち上げて作る、玉川堂の鎚起と同じ技法であった。打ち上げでここまでやれるものかと、まさに驚愕(きょうがく)ものであった。晩年、時間的余裕もでき、積年温めていた細口に挑戦。試行錯誤の末、ようやく納得するものができた。現在、燕市産業史料館に展示されている。  さて、小生も今年(2021年)83歳となり、静かにお迎えを待っています。  まさに「夢は枯野をかけめぐるかな」の心境であります。 ※ この聞き取りの後、2022年1月3日、6代目玉川政男氏は84歳で逝去されました。

 

お付き合いありがとうございます😭

俄然、今日も楽しむしか無いですね!

エンジョイ😎